初夏の光に包まれたアンデルマットの村を歩くと、長くこの地を象徴していた『堅牢な軍事拠点』という無機質なイメージが、心地よい驚きとともに霧散していく。 ここ数年間、毎年7月に、この地を訪れその変遷を定点観測してきたが、かつて山間に漂っていた閉鎖的な空気は完全に塗り替えられている。 そこにあるのは、洗練されたラグジュアリーホテルと伝統的な村の光景であり、圧倒的な自然の中で見事に調和した『通年型リゾート』としての力強い胎動である。

スイス連邦統計局(BFS)が発表した2025年度の最新データは、この国の観光業が歴史的パラダイムシフトを遂げたことを鮮烈に物語っている。 外国人宿泊者数2,280万泊という驚異的な記録を打ち上げて、第三四半期の観光収入だけで約58億1.820万スイスフランを計上。 コロナパンデミック前の水準を軽々と塗り替えたこの数字は、単なる客足の回復ではなく、観光を、国家ブランドの根幹を支える『戦略的輸出産業』へと押し上げた緻密な経済設計の結実ではないだろうか。

スイス観光の真髄は、その経済全体への寄与度の『質』にある。 観光業が国内総生産(GDP)に占める割合は、これまで3%程度が実質的な限界値とされてきたが、現在はそれを突破しかねない異例の勢いを見せている。特筆すべきは、『強いスイスフラン』という恒常的な逆風を、『質の担保』という盤石な競争優位性に転換したことにある。 スイス政府観光局が掲げたコンセプト『Value for Money(価格に見合う質)』は、単なるスローガンを超えて実体経済に深く根を下ろした。 2025年8月の月間到着者数256万人は過去最高値を記録。これは、バラマキ型の集客ではなく、環境意識の高い富裕層から『高くても、スイスでなければならない』との選別を、勝ち取った結果に他ならない。

一方で、2025年は、国際的なメガイヴェントが地方経済の毛細血管を動かす触媒となった年でもある。
5月、『ユーロビジョン・ソング・コンテスト』、7月の『UEFA欧州女子選手権』は、欧州近隣諸国からの流動を爆発的に加速させた。私も大会期間中に現地に身を置いていたが、欧州各国から押し寄せるファンの熱量には圧倒されるばかりであった。その熱気はスタジアム周辺に留まらず、山間の村々にまで波及していた。宿泊施設は勿論のこと、レストラン、土産物店、町の商店に至るまで、あらゆる場所で、強烈な経済波及効果を肌身で感じるに至った。
『スイスの凄み』は、一時的な興行を地域社会の隅々まで外貨を浸透させる『持続的な仕組み』へと繋げている点にあるのだ。

この好循環を支えるのは、持続可能な観光戦略【Swisstainable(スイステナブル)】の浸透だ。スイスにおいて自然保護とラグジュアリーの両立は、もはや二律背反ではない。高付加価値な滞在スタイルを維持し、客単価を落とさずに環境負荷をコントロールする。この高度なバランス感覚が、米国市場の堅調な伸展や、前年比10%増を記録したインド市場などの新興高所得層を惹きつけて離さない。

2025年度の活況が地域活性化に果たした役割は見過ごすことはできない。 
観光は一部の施設を潤すだけのサービス業ではなく、地方における安定雇用の維持や若年層の流出阻止に直結している。観光収益が地域のインフラや文化保存に再投資される『循環型観光経済』のモデルは、今まさに確かな手ごたえと共に形を成しつつある。

2025年度のスイスが示したのは、気候変動や地政学的リスクといった『不可避な外部要因』を克服し得る、極めて強靭な地域経営のパラダイムである。 それは、地域のブランドや人材という非財務的資産を『ホスピタリテイ資産』として戦略的に運用し、成長へと繋げる強靭な経営モデルの一翼である。 人口減少や地域経済の停滞といった困難な局面にある日本に於いて、このスイスの軌跡は各地域が自律的な再生を果たすための大きな示唆に富む指針となるだろう。

自然景観保護と地域経済発展の両輪を回し進捗する『アンデルマット開発』
壮麗なラグジュアリーホテルから徒歩20分もゆけば『ありのまま』自然の美しさと出逢う。
The Chedi Andermatt
5つ星ホテルラグジュアリーリゾートロビー

このラグジュアリー感と古からの美し自然のコントラストが非日常の癒しへと繋がっていくのだ。
ラグジュアリー=高級ではない。