『掖済』という言葉の意味を教えてくださったのは、北川先生だった。
『掖』とは、腋に手を添えること。
『済』とは、人を救い、助け、導くこと。
すなわち、『掖済』とは、苦しみや不安のなかにある人の傍らに立ち、その人が再び歩み出せるよう、そっと手を添えること、、それを先生は穏やかに語ってくださった。
その時は、『掖済』という病院名に込められた理念を教えていただいたのだ、と、私は受け止めていた。しかし、今になって思えば、あれは病院の理念を説明されたのではなく、北川先生が救命救急の現場で一貫して実践されてきた、ひとりの医師としての在り方を、そのふるまいをもって教えてくださっていたのではないだろうか。そのように思う。
思い返せば、19歳の私に向けられたまなざしも、まさに『掖済』のそれであった。
先生は答えを示して導こうとされたのではなく、ただ、ひとりの人間として向き合い、不安を抱えた私の傍らに立ち続けてくださった。だからこそ、私は病だけではなく、人としての尊厳を救われ、歩みを止めず新たな旅立ちを迎えられたのかと思う。
そして、その意味を本当に理解するまでには『ホテリエと』して多くの人々との出会い、交わり、その一人一人の人生に寄り添いながら、長い歳月を重ねることになった。
目の前にいる人は、ただ『宿泊客』ではなく、それぞれの人生を生きる人間なのだ、と、幾星霜の中で限りなく思い知らされてきた。
だから、『ホスピタリテイ』とは、洗練された所作や、期待を超えるサーヴィスだけを意味するものではなく、目の前の人が、何を抱え、何を願い、どのような思いでそこにいるのか。。。
その声にならない思いに耳を澄ませ、その人の尊厳を大切に受け止め、再びその人らしく明日を歩み出せるよう寄り添うこと。そこに、『ホスピタリテイ』という営みの本質があるのではないだろうか。
映画『その鼓動に耳をあてよ』が映し出していたのも、まさにその姿であった。『救命救急』とは、命をつなぐためだけの場所ではない。人生の危機に直面した人の傍らに立ち、その人が再び生きる力を取り戻せるよう支える場所である。
「患者さんがきたらまず診てあげましょう。軽いか重いかは診てあげなければ分からないのだから」
症状の軽重ではなく、目の前の人がかかえる危機の傍らに立つ。
スクリーンに映し出されるのは、高度な医療技術を誇示する姿ではなく、その思い=『人を診る』寄り添いを体現化する日常、そして、ひとりひとりの患者に向けられた深く温かなまなざしであった。
私は今、『掖済』という二文字を思うたびに、一つの核心へとたどり着く。
ひとりの人間の傍らに立つということこそが、医療の原点であり、ホスピタリテイの源流でもあるということに。
『医療』と『ホテル』は、その役割も責務も異なる。決して同じ仕事ではない。然し、人をひとりの人間として受けとめ、その人の尊厳を信じ、再び歩き出す力を支えようとする思想において、両者は深いところで響き合っている。
言葉は人が生み出す。だが、その言葉に生命を吹き込むのは、その言葉を生きる人の存在である。
私にとって、『掖済』とは、定義に還元できる言葉ではない。長い歳月を通して、一人の医師がその歩みをもって示してこださった、『生きた思想』そのものである。
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