「やせたみたいね、お母さん。ふざけておぶって感じたの」
1974年に発売された森昌子さんの曲
歌詞と同じ思いを自身が感じることになるとは、淋しいような悔やまれるような何とも言えない複雑な気持ちを覚えています。

ある程度の年齢になれば、親から独立して別人生を歩むことに何ら首をかしげることもない。寧ろ、そうでないと成人への道を歩いては行けないもの。だけれども、しばらくぶりに帰省して出くわす「私が知る母ではない」母を目の当たりにして、私自身はたじろいでしまった。元気なんだけれども、その姿は以前のガタイよい颯爽とした母像とは異なりひと回り、いやふた回り?小柄になっていたのだ。
「どうしたの?どこか調子よくないの?」
「どこも悪くはないわよ」
「そんなに痩せちゃうなんて尋常とは思えない。食べてる?」
そんな取り留めのない会話が続くも、これが結論へ結びつくことはない。

母は、大学卒業後、名古屋の某私立女子中高の英語教諭として社会人1年生を迎えた。初めて親元を離れ見ず知らずの「名古屋」へ赴任。学校近くにある裁縫教室の2階で下宿生活をしながら生徒と最も年齢の近い先生として活き活きと暮らしていたという。
母方の祖父母にすれば、この時点ですでにお嫁に行ってしまった、そんな気持ちもあったでしょう。ほどなくして、名古屋在住の父と仕事の関係で知り合い、のちに結婚。もう60年間以上を名古屋で生きる名古屋人となっている。24歳、舅姑同居という今では「ない!」往時の当り前結婚に、それはそれは心労の連続であったこと想像に難くない。現代の24歳の選択肢にはない、いや、選択肢欄すらない【同居】。祖父は実業家の一方で、様々な協会のお役を受けていたりと兎角社会との繋がりが多く、ゆえに自宅には頻繁に来客があった。そのお手伝い、子育てともうてんやわんやの日々を送っていたのかと思う。私の下に年子の弟、5歳下の弟、3人の子育て。完成品はこんな感じですので【ごめんなさい】ですが、その子育ては常に子供の心と在り様に向き合ってくれる大らかさがあった。途轍もなく厳しい!だが、その厳しさの中に慈愛をいつも感じていた。そして抜きん出た判断力と実行力にも今更ながら度肝を抜かれる。継続性と協調性もピカイチ。一生、母には追い付けないと思っている。

最年少の弟が小学校4年生になる頃、母は少しずつ仕事の再開を始めた。同じミッション系高校の非常勤英語教師の職に就いたのだ。
まだまだ手のかかる子供たちが居る。学校行事もある。常勤は困難と判断し非常勤から始めた。仕事再開後も、母の家族に対するライフスタイルは一切変わらない。朝食、昼食、夕食、おやつ、いづれの食も手造り。時間のある週末には、母と一緒にクッキーやらパンを焼いた。シュークリームのシュー、カスタード、そしてキャロットケーキ、週末には必ず何かしかスイーツが用意され夕食後の家族団らんに一花添えていた。我々が成長するにつれ、母は仕事のボリュームを徐々に増やしていき最年少が中学生になる事には常勤講師として英語教育に力を注いでいた。子育てが一段落した途端に祖父の介護が始まる。状況を鑑みて手綱を強めたり弱めたりする適応性に優れているのか。どれひとつ疎かにすることはなかった。祖父を見送ったのち、母は系列の女子短大で英米文学の教鞭を執ることになった。そして同時に、母自身は某大学院へ進学。御年46歳。そのような生活でもインスタント食品で食事を代用はなかった。
修士課程修了、卒業式でキャップandガウンを纏う母を誇らしく思えた。もしかしたら、母を誇りに思ういちばんの出来事であったかもしれない。妻として母として、ひとりの人間として『今、この時』に向き合う姿勢。自己顕示欲、名誉欲などにまったく興味を示さない類の人間である母。きっと【すき】を探究しているのと、【すき】になることに意識を向けて困難にも対峙してきたのかと思う。

仕事も研究も軌道に乗っている矢先に、父の海外赴任。
ここで一旦オールクローズセットとなる。あの時、母は短大教員のポストを捨てること=帰国後の復職保証なしの選択肢をよく貫通したものだ、私も社会人となって久しい今だからそう思える。赴任先のスイス、父はオフィス、私は学校、で、母は??
ハウスワーカーのように映った。何だか私には母が可哀相に思えたな。そして母らしくない、、、とポツリと呟いた。
決して社交性の高い人ではなく、どちらかと言えば控えめなタイプ。それでも適応性はピカイチなのは前述の通りだ。
いつしかコミュニテイのクッキングクラブに入り、また、そのコミュニテイのドイツ語履修にも顔を出す様になり、得難い【スイス生活】を楽しむことに自分を馴染ませていった。

数年後に帰国。
母は従前の短大へと復職。加えて、看護短大でも英語を教えることとなった。いずれも元職場の教授、同僚らから助力をいただき得られた新たな仕事。この時、母が話していたこと『いつも今をいきることね。そして友人、家族皆さまに感謝を忘れないで』
幼い頃から、『人様には良いものを差し上げなさいね』と言われてきた。2つの内、どちらかを人に差し上げる時、良いと思われるものを他人様にという事だ。『徳と宝は天に積んでいきましょうね』

そんな母はやがて同系列の大学で教鞭を執ることとなり、定年までその務めを果たし退いた。
そして自らは、大学院博士課程へと進み、極めて取得難関と言われる文学系のph.Dとなった。
「今更ドクターとっても就職に有利にはならないよ」杓子定規な私に、
「学ぶこと、学ぶ環境を授けられることは幸せね」

昨今、色々あって気落ちするも頑張らないと!と強がる私に、
「頑張らなくて良いのよ。今までの疲れをとる期間を与えられたと思えば良いのよ」
「貴女の周りに居てくださる皆さまに感謝ですね」

母に適わない。いつまでたっても追いつけはしない。
だけれども、私はこの母の娘として生きていく幸せをずっとずっと繋げていきたい。

自分が歳を取っていくのに、親はいつまでもそのままに在る、と思ってしまう。
母の姿を必死になって探していた幼稚園児のわたし。
今は、自宅へ帰るためにバスの中に居る私を必死に探し、振り返るとまだ其処に立つ母の姿が在る。

これからも何度もお祝いできる日、それが私の母の誕生日、そう願う。

日田天ヶ瀬旅行 九州在住が長くなり、それまでまったくご縁の無かった両親もしばしば九州旅行を敢行してくれました。天ヶ瀬、九重、宇佐、杵築、天草など、あちこち。。。これからも楽しもうね。
75歳を過ぎ、俳句が趣味の一つに加わりました。NHK俳句選に入賞。NHKホールへの招待?をいただき一緒に参上。その祝勝会@ブラン・ルージュ、東京ステーションホテル